|
アーサーリバティが後年、彼の独立のきっかけとなったファーマー&ロジャースに入社したのは1862年。
それは日本が国としてヨーロッパの万国博覧会に始めて参加した年でもありました。
ケンジントンの現在、自然史博物館のある場所で開催されたのですが、ラファエル前派(英国の若き画家達によって結成された芸術革新運動の一派)の一群の絵が多数あり、アーツ&クラフツ運動に発展する彼らの仲間達の装飾芸術がこの博覧会を機に、大きく自己主張していくことになります。
そんな中にモリスの作品もあり、この博覧会以前には親しい友人達にしか見せたことのなかったものでした。
博覧会終了後、ファーマー&ロジャース社が日本の多くの展示品を買い取り、販売をまかせられたのがアーサーリバティでした。
当時リバティ氏は、公になったモリス達、若き芸術家の作品と出会い、どんなことを感じ、何を思ったでしょう。
かたやモリスは一生、生活の糧を求めての労働には一切かかわることのない裕福な経済力をもち(代々の遺産)オックスフォード大学で思う存分自分の好きな研究に没頭できる立場にあり、自分の財産のせいで、仲間はずれにならないよう常に細心の注意を払っていました。
かたやリバティ氏は、頭の良さは抜群でも地方の小さな服地商を営む父の仕事が順調な間はノッチンガムの大学の付属学校の寄宿生でしたが(その頭の良さはとび級をして大学入学資格試験を受けられるほどだったそうです)
父が経済的に困窮するようになり、学業はあきらめ、わずか16歳でロンドンに出て、ベーカーストリートの服地商に見習いとして入り、そのわずか3年後には女王陛下をはじめ皇族を顧客に持つリージェントストリートのファーマー&ロジャース社に入社し、いわゆる信じられるものは自分の感性だけという人生の真っ只中にいました。
そんな中の博覧会でしたが、その時はまさか後年自分がウィリアムモリスのデザインを買い取る立場になろうとは...
リバティ氏の気持ちをあれこれ思い巡らすのは私が凡人ゆえのことで、そんなことより将来に計り知れない希望と可能性を秘めた素晴らしい青年だったことでしょう。
|
1860年前後にウィリアムモリスによって書かれた油絵(画像1)スケッチ(画像2)木版画染めのアフリカンマリーゴールド(画像3左上)
リンダ・バリー著 多田稔監修 ウィリアムモリス 河出書房新社
|
アフリカンマリーゴールド(1876年)
染色といえば、英国よりフランス、イタリア、ドイツが先に頭に浮かびますが、実は当時英国が一歩優位にたっていました。
18世紀以降の染色業界の課題が、インディゴの青系染料を用いた上質の染色の探求でしたが、英国が他国に先んじて、「チャイナブルー」「ペンシルブルー」を発明したからです。それも今や悪名高きアニリン染めが発明されるまでのことです。
このアフリカンマリーゴールドも最初、プロシアブルーで染められました。モリスは何回も何回も試作を繰り返し、不満の種のプロシアブルーの鮮やかさを省く努力をしていました。
依頼された染色工場のスタッフは染料の桶を7日間見守り、世話を続けました。ウールやシルクの束を染めることは比較的楽にできても、現在でもブロック捺染は最高度の染色法と思われます。
モリスの要求に答えられる染色工は英国広しと言えどもたった一人だったそうです。このアフリカンマリーゴールドで青の色とインディゴ抜染そして染色工に依頼して、自分のデザインをプリントしてもらうことが、途方もなく時間と労力と氣力の無駄使いに気づいたモリスが自分の工房(マートンアビー)を持つきっかけとなり、いちご泥棒(1883年)の成功につながったと思われます。
リバティ社により過去に発売されていたアフリカンマリーゴールド(左下)と、
現在、在庫が少ししかないSE-0408品番(右)です。
|